la citta degli fiori (花の都フィレンツェ)

スタンダール症候群という言葉をご存知だろうか。
「赤と黒」の著者として有名なフランス人作家のスタンダールが、19世紀初めに、初めてフィレンツェを訪れたとき、
街中に溢れるそのルネッサンス時代の美の洪水に圧倒され、一種の恍惚状態に陥り、精神的な安定を失ったという話がある。
絵画や彫刻そして建物などの美術品のあまりの質の高さと量の豊富さに、眩暈や吐き気を感じ、
ひどいときには気を失って救急車で病院に担ぎ込まれ、精神科の治療を受ける。
このような状態に陥る人の数の多さに、そういった精神状態の症状にスタンダール症候群という名前がつけられた。
ちなみにスタンダール症候群にかかるのは、フィレンツェを訪れる外国人、そして”教養が高い人”に多いらしい。
それでは、僕の場合はというと、フィレンツェに初めてきたのは7年前の大学生の時、
2回目は2年前、そして今回の留学、いづれの場合にも上記のような症状に陥ったことはなく、
残念ながら間接的に自分の教養の低さが証明されてしまった形である。

では、フィレンツェに初めてきたときの印象はどうであったかというと、「古い」「汚い」の2つであった。
そして、”花の都”とは程遠いこの第一印象は、”第一”だけではなく、10ヶ月近くこの街に住んだ今でも基本的に同じ印象を持っている。

まず、第一に、実際フィレンツェの街は恐ろしく古い。街の歴史が古いということを言っているのではない。
建物や道をはじめ、街を構成する物理的な物質が非常に古いのだ。
石造りの建物が多いここフィレンツェでは、築100年の建物は、完全に新しい部類に入る。
70年前に立てられた、フィレンツェの中央駅SMN駅の建物などは、ほとんど”モダンな現代建築”扱いされている。
というより、戦争で破壊された、洪水で壊れたなど、特別な理由がない限り、ここ100年で建て替えられた建物は基本的にないこの街では、
築200年までは比較的新しい建物とされ、築400年を超えて初めて、古い建物の仲間入りを果たせるのである。
そんな感じだから、おそらく旧市街の辺りは、スタンダールが訪れた200年前と、特に建物や道に限った話ではほとんど変わっていない。
200年どころか、500年前のルネッサンス時代の絵に描かれたフィレンツェの街の様子を見ても、今とまったく同じ風景だったりするのである。
(50年前の写真などでは、こことここが変わったね、と間違い探しをするようなレベルだ。)

先にフィレンツェの”旧市街”と書いたが、それはちょっと間違いで、
ここフィレンツェには、他のヨーロッパなどの古い街には必ず存在する、”新市街”というものがない、極めて珍しい大都市である。
新市街がないのだから、それに対する旧市街もない。
つまりこのフィレンツェという街は、大きな町の中の旧市街という一部分ではなく、また歴史地区として保存された一角でもなく、
400年前からずっと変わらない非常に”古い現役”の街なのである。

視点を変えると、フィレンツェという街自体の機能は、ほぼ”観光”のためにある。
恐ろしい統計があるのだが、ある瞬間にフィレンツェに住む人の割合だが、なんとイタリア人よりも外国人のほうが多いのだという。
つまり、僕のような留学生も”観光客”とすると、町に住む半分近くが観光客という非常に特殊な街なのだ。
そして残りの半分のイタリア人はというと、土産物屋、ホテル、レストランにはじまり、基本的には何かしら観光に関係した仕事をしている筈なのだ。
というのも、観光客に関連しない仕事をするのであれば、フィレンツェに住む必要が無い筈なのである。
じゃあ、フィレンツェに沢山いる職人たちは?というと、彼らもまた、基本的に観光客が買っていく物を作っているという意味で、
観光という世界の中にしっかり組み込まれているわけだし(じゃなければわざわざコストの高いこの街に工房は持たない)、
また市バスの運転手やスーパーの店員、床屋のおじさんなどにしたって、一見観光から離れた仕事をしている人であっても、
基本的は、観光業に従事しているイタリア人がお客のメインであるわけだから、
そういった観光業以外の職業を含めて、もしフィレンツェから観光を取り除いたとしたときに存在しえる職業というのは、
教会の聖職者ぐらいなのではないかと思えるほどである。
よって、観光に関係のない機能はフィレンツェに存在する理由もないため、どんな大会社でもフィレンツェにオフィスを持つことは稀だし、
だからこの街には、観光客が訪れる必要のない”新市街”、オフィス街や地元の人たちだけのための街の機能とというものが存在しないのである。
極端な言い方をすると、ある種ディズニーランドのような街とも言える。

そしてそんなこの街の特殊な事情は、何も現代に始まったわけではなく、スタンダールが訪れた200年前からまったく同じ状況であるだろうし、
だから外国人に自分の街を占領されている地元っ子のフィレンツェ人だって、それを嘆いたり、非難するわけでもなく、
親子何代にも渡って観光業を家業にしている人なんてまったく普通なのだ。
つまり、フィレンツェは”古い”こと宿命付けられた街なのである。

では、次に「汚い」である。
花の都フィレンツェ。
フィレンツェという街の名前そのものが、花という意味(fiore)をさすこの街であるが、
実際のところ、特に町の中心部に至っては、花どころか木や植え込み、そもそも土自体がほとんど無い花とは無縁な街である。
いや花なんていってるどころではなく、ゴミ、タバコそして何よりも犬の糞・・・。イタリアの他の大都市と同じく、フィレンツェの道は非常に汚い。
ポイ捨てしないと掃除を生業としている人から仕事を奪うといわんばかりに、街中はゴミにあふれている。
ただそれはイタリア人をはじめ南ヨーロッパ、ラテン民族共通のモラルの問題であるから、ここではこれ以上特に取り上げない。
しかし、たとえそれらのゴミを、大型清掃車がすさまじい騒音を立てながらきれいさっぱり掃除したとしても、やっぱり何か”汚い”のである。
衛生的に汚いというのではなく、薄汚いというか、シミだらけというか。

まあ、これもまた”古い”ということにも起因するのだと思うが、
建物の壁にしろ、石畳にしろ、ルネッサンス時代から何百年かけて染み付いた汚れというものは、
すでに綺麗に”掃除する対象”ではなく、絵画や彫刻と同じですでにその汚れは”修復する対象”であって、日々の掃除云々の話ではないのである。
といっても、ここ50年は、特に排気ガスによる汚れは非常にひどいし、もともとフィレンツェは盆地で空気の流れが悪く、
非常に空気が汚い街なので、いくら歴史がつけた汚れといっても、見た目も非常に汚いのだ。
特に大理石の彫刻や建物なんか当初の美しい乳白色なんか見る影もなく、ただ茶色い汚い石になってしまっているし、
石造りで荘厳な由緒ある何とか宮とかいった歴史的建物、例えばメディチリカルディー宮など、
その染み付いた汚れと鳩の糞とで、落書きをしたってわからないぐらい汚い。

また、国民性も大いにあると思う。同じ古い街といっても、ドイツの歴史ある町並みは非常に綺麗で清潔で驚いてしまう。
建物も石畳もみーんなメルヘンチックで、イタリアの歴史的な街に比べたら本当に綺麗で驚く。
でもよーく観察するとそのからくりがわかる。
ドイツの”綺麗な”歴史的な建物は、実は基本的に全部新しいのだ。
石畳にしても石造りの建物にしても、基本的に新しく修復されたものなのである。
もちろんイタリアだって建物でも道路でも修復する。しかしその修復のポリシーがまったく異なる。
ドイツの場合の修復とは、その建物や石畳、また絵画や彫刻が、”完成した当時の姿に戻す”ということが目的であるように感じる。
このポリシーは、第二次大戦で町の多くが壊滅的な破壊を受けたということ起因しているかもしれないが、
絵や彫刻などを修復する際には、欠落した部分でも検証をした上でどんどんオリジナルの上に書き足してしまうし、
建物や石畳なんかも修復というより、ほぼ当時の姿に”建て直してしまう”ことが多いのであると思う。
だから石畳の古い街なんかでも、別に石畳がでこぼこで歩きにくいといったこともなく、とても綺麗なメルヘンチックな町であることが多い。

それに対しイタリアの修復は、”現状の維持”が目的である。現状といっても、もちろん汚れがあるそのままではなく、
そのものが作られてから400年経った現在”あるべき姿”に戻すということである。
よって、修復のメインの作業は、基本的に洗浄である。
だからイタリアでは、フレスコ画の欠落部分に絵を書き足したりすることはあまりなく、大抵は漆喰でそれ以上欠落しないように塗り固めるだけである。
しかし”現在あるべき姿”というところが非常にさじ加減が難しく、どんな細かい修復作業でも、すぐに議論の対象となり、
修復作業自体の効率が非常に悪く、そしてそれよりもまずイタリア人が作業するという根本的な効率の問題もあり、
単純な洗浄すらなかなかはかどらない。そんなイタリア人の国民性そのものが、街が永遠に薄汚い一因であるかもしれない。


さてさて、古い、汚いの勝手な検証はこの辺にしておき、
肝心のフィレンツェの”美しさ”についてだが、実際にこの街を美しいと感じること自体非常に難しいと思う。
”花の都フィレンツェ”の”都”の部分は措いておいて、”花”の部分、それ自体をまず最初に感じたのは、
ウフィッツィ美術館の主役ともいえる、ボッティチェリの”春(プリマベーラ)”であった。何度見ても圧巻の、僕が世界中で一番好きな絵画である。
その絵の登場人物たちの足元に無数の花が描かれているのをご存知だろうか。
花といっても花屋さんで花束にして買うような派手な花ではなく、野草に近い草花なのであるが、
それらの花がまさに、凍てつく冬が終わりようやくやってきた優しい春を感じさせるのである。
その絵から感じた春を、まさにこの春フィレンツェで体感することが出来た。
先にも書いたとおり、フィレンツェの中心街には花のかけらもない。
しかし、ようやく暖かくなった3月の終わり、ある天気のとてもよい日、
中心部から歩いて10分のところ、ピッティ宮の裏に広がるボーボリ庭園を初めて訪れたとき、
そこに咲いていた。まさにボッティチェリの絵の中に咲き乱れるかわいい野草の花たちである。
植えられたわけでも、きれいに揃って咲いているわけでもないが、
沢山の種類の花たちが、一つ一つ控えめに、そして優しく、それぞれ一輪分の春を見事に咲かせていた。

暖房がほとんど気休め程度であるイタリアの冬は、僕の人生の中でも本当に一番長い冬で、
一日一日心から待ち遠しかった春の到来を告げるそれらの花々は、本当に美しかった。
フィレンツェで、”素直に”美しいと感じたのは、滞在9ヶ月目にしてこれが初めてだったかもしれない。


さてさてさて、最後に、
じゃあ本当にフィレンツェは、美しい”花の都”でないかというと、
アルノ川の対岸の小高い丘の上にあるミケランジェロ広場に上がって、フィレンツェの町全体を見渡してみると、ようやくなぞが解けます。
あーなんだ、フィレンツェは、花咲き乱れる街だったのではなく、街自体そのものが”花”だったのか。
トスカーナの土で作られた赤レンガの屋根が広がる街並は、少し日が陰ってきた夕方の少し前が、一番美しく”花”咲かせる時刻です。

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